病に愛を。死に花束を。

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ときどき、ママの夢を見る。



大体においてそれは、病気の頃のママの夢で、



夢の中で私は、恐れ、悩み、苦しんでいる。







そういう夢から覚めたとき、「ああ、良かった」と思う。



「ああ、良かった、もう死んでるから大丈夫だ」と思う。



死んでるから大丈夫というのは、おかしな話なのだけれど、



そういう夢から覚めたとき、私は必ずそう思うのだ。







何故、いまだにそんな夢を見るのだろう。



私が思うにそれは、その頃の記憶や苦しみが強烈だったので、



それが私の潜在意識だかどこかに残っていて、時々、夢として浮上してくるのだと思う。







多くの人は、ママが亡くなったあとの私を心配してくれたけれど、



私が一番苦しみを感じたのは、死のあとではない。







私が一番苦しみを感じたとき、それは、







癌が発覚したとき、またその生存率を聞いたとき、



「最善」の治療を探しているとき、またその「最善」の治療が分からなかったとき、



手術をしたとき、またその手術のあとに摘出された胃を見たとき、



一人でお見舞いに行ったとき、また一人でお見舞いから帰ってきたとき、



抗癌剤の治療が始まったとき、またそのあとに出た副作用を見たとき、



ステージが4になったとき、またそれを知って祖母が電話越しに泣いていたとき、



徐々に痩せ細っていく身体を見たとき、またそれを見て死の恐怖を感じたとき。







私の苦しみはこれらであって、「死」そのものではなかった。



「死」そのものは皮肉にも、それが起きることによって、



それらの苦しみから私を解放したのだった。







あの頃の私は、病をそして死を、許すことができなかった。



何故ならそれは、許すべきものではなかったから。治すべきものであったから。







健康は良いことで、病は悪いことだったから。



生きることは良いことで、死ぬことは悪いことだったから。







治るべきで、生きるべきであったから。







愛する人を失うことは悲しいことかもしれない。



けれど、病が愛していいものであったのなら、死が許していいものであったのなら、



私はあの頃、あれほど苦しまなかったと思う。








あの頃の私にこの言葉を祈りたい。















これから先、あなたの人生に何が起ころうと、



また愛する人の人生に何が起ころうと、



それが起きることを許せますように。









健康を許すように、病を許せますように。



生を許すように、死を許せますように。



治ることを許すように、治らないことを許せますように。









愛さなくてもいいけれど、



ただただ、それが起きることを許せますように。







それでもやっぱり、許せないかもしれないね。















それでは、その許せない自分すらも、



許すことができますように。